4/17/2018

都城島津邸・都城島津家墓地・都之城跡


2018.4.6

今回の帰省は、宮崎にまで範囲を広げ、4日間で島津所縁の地を廻る。
初日は都城周辺の史跡巡り、えびの市にある木崎原古戦場、そして伊佐市を迂回して鹿児島に帰る予定。


都城市のホテルに前日入りしていたので、開場時間に合わせて都城島津邸へ向かう。良いのか悪いのか、午前中は島津雨。





1935年築の御門を入ると、左手に現在はカフェになっている石蔵、その横に剣道場、御門前は都城島津伝承館、中庭を挟んで本宅という配置。

この日は、示現流の演習があるらしく、ボランティアの人が準備に追われていたけど、11時までは待てないので今回はスルー。奥に見えるのが本宅。



入館料210円を払い、都城島津伝承館を見学。都城島津家に伝わる史料1万点が都城市へ寄贈され、保存・公開のため平成16年に開館した。島津氏の誕生から祝吉御所絵図、石田三成による九州征伐の戦後処理状、歴代北郷家当主の展示物などがあり、非常に興味深かった。


都城島津邸は、一時鹿児島に移っていた都城島津氏26代当主 島津久寛が都城に戻って建てたものらしい。それが1879年というから思いのほか新しい。また、閑院宮や昭和天皇の宿泊に備えて改築、増築が繰り返されている。

裏庭から撮った本宅。



観覧料100円を払い本宅内へ。
昭和天皇の宿泊のために造られた浴室、実際に使用した寝室、また食事を再現されたものなどを見学することができる。



次の目的地は、都城島津邸から車で7分ぐらいで行ける龍峯寺。都城領主第8代 北郷忠相が母(松庵妙椿大姉)の菩提供養のために建立し、起宗守興和尚(大姉の弟)によって開山された。以後、島津家の墓所となっている。


まず目に付くのが義烈塔。島津久静によって建立されたもので、初代 資忠から12代 忠能に至る間に戦死・殉死した家臣505人の名が刻まれている。



その義烈塔の横を上がって行くと、都城島津家墓地へ辿り着く。しかし、柵に鍵がかけられ、一般の立ち入りはできない様子だった。




年代ごとに分けられているそうだが、略図的なのもなく、どれが何だかわからない。
詳しくは、みやざき文庫76から「都城島津家墓地 その歴史と変遷・全調査の記録」という本が出ているので、読んでみたいと思う。



島津雨が止む気配もないので、ここから程近い都之城跡へ向かった。


南北朝時代、島津宗家4代当主 島津忠宗の嫡子 貞久が本宗家を継ぎ、他の兄弟が新納氏、和泉氏、樺山氏など本家を支える有力な分家となった。北郷氏もその一つで、忠宗の6男 資忠が北郷氏(都城島津氏)の始祖となって都城を納めた。
都之城は、1375年に2代 北郷義久によって築城され、1615年の一国一城令で廃城になるまで、北郷氏の居城となった。

都城を足利尊氏から与えられて以降、北郷家が領してきた土地だが、島津家が豊臣秀吉の九州征伐に降伏し、1595年に北郷家は祁答院へ移封された。そして、都城は豊臣政権から島津義久の家臣 伊集院忠棟に与えられる。

しかし家臣でありながら、あまりにも権力を持ち過ぎた忠棟に対して、島津忠恒(後の薩摩藩初代藩主)は、自ら斬殺するという事件を起した。

父を斬殺された伊集院忠真は、1599年この都之城に籠城し、島津本家と対立した庄内の乱が起こり、都城盆地はその舞台となった歴史がある。

庄内の乱後、伊集院氏は頴娃へ移され、北郷氏は都城の復帰を果たす。




この大手門(脇戸附櫓門 単層櫓)は、歴史資料館の城風様式に併せて建設されたもの。ここから本丸跡までしばらく歩かされ、その広大さを体感した。途中、空堀と書かれた看板があったけど、当時の遺構なのだろうか。



都之城本丸跡に築かれた都城歴史資料館。やり過ぎ感のある城郭風建造物は、当然復元したものではない。




入館料は大人210円。展示品は、時期的なのもあると思うが、戦国物目当てだったので物足りない印象だった。

1/29/2018

生麦・本覚寺


2018.1.5

湘南新宿ラインで横浜駅乗り換え、京急線で生麦へ。

1862年、薩摩藩士が英国商人ら4人を殺傷した生麦事件が、ここ生麦村で起こった。生麦事件はもちろん、時代背景もちょっと勉強して行った。



開国を迫る米国との間に井伊直弼は、日米修好通商条約を朝廷の勅許を得ずに締結。さらに、徳川慶福(家茂)の将軍継嗣を断行した。

譜代大名が政治を行う譜代専制から、外様大名も政治に参加する挙国一致体制を目指した島津斉彬は、これを不服とし、藩兵5000人を率いて上洛を計画していたという。しかし斉彬の急死(毒殺とも)で実現しなかったが、異母弟 島津久光が斉彬の遺志を継いだ。

1862年3月16日、薩摩藩国父の久光は、1000人の薩摩藩士と共に、小銃100挺と野戦砲4門を携え、率兵上京を敢行。京から江戸へ入り、朝廷の権威と薩摩藩の武力で幕府に幕政改革を迫るためである。
しかし、時の薩摩藩主は実子の茂久で、久光は無位無官。京に入れる保障はなかったが、孝明天皇の側近 岩倉具視の尽力により、京都滞在の朝命を得て入京した。そして、同士薩摩の精忠組を武力により鎮圧(寺田屋事変)し、孝明天皇から幕政改革案への同意を得ることに成功した。久光は勅使 大原重徳を護衛し、700の兵を率いて江戸に入った。そして、幕府へ雄藩連合に賛同する一橋慶喜と、松平春嶽の登用を飲ませた。

任を果たした久光は京に戻る道中、川崎大師に向かっていた英国商人ら4人と遭遇。乗馬したままやり過ごそうとした彼らに、薩摩藩士が馬を降りろという仕草をした。
リチャードソンが馬首を返したところ、行列に突っ込みかけ、共頭 奈良原喜左衛門ら数人が斬り付けた。


現在、この生麦事件発生現場には、関口日記より抜粋の看板が民家の塀に設置されている。



さらに旧東海道を約700m下ったところで、海江田信義が止めを刺し、リチャードソンは落命した。ここに、生麦事件碑が建てられている。ちょうどKIRIN工場の前。



現在の旧東海道。




京急線で神奈川駅へ移動。

リチャードソンと同じく斬り付けられたマーシャルとクラークは、本覚寺に置かれていたアメリカ領事館に逃げ込み救いを求めた。そして医師ヘボンの治療を受けている。




参拝して朱印帳を書いてもらった。



ボロディールは横浜居留地へ逃れ、住人たちに事件の詳細を伝えた。
通説だと、ヨーロッパ人からの襲撃を恐れて久光一行は、神奈川宿から保土ヶ谷宿に宿泊先を変えたとされる。しかし江戸からの距離を考えれば、1日で保土ヶ谷宿まで進むのは可能であり、そもそも400人もの宿泊先を直前に変えれるか?という見解から疑問が残る。

英国側は、賠償金と殺傷した者の処罰を要求。これに薩摩藩は、犯人を足軽の岡野新助(存在しない)とし、事件後は行方不明との報告をした。賠償金も拒否。交渉決裂により英国は、軍艦7隻を錦江湾に入港させ、薩英戦争が勃発する。


生麦に戻り、淺海さんが個人運営している生麦事件参考館へ。予約してなかったけど、1時間ほどDVDを見て、個人収集の貴重な資料を見学させてもらった。



KIRIN工場見学を予約していたので、淺海さんにお礼を言ってKIRIN工場へ。ビールをたらふく飲ませてもらい帰路に着く。

 

1/03/2018

早川城跡・五社神社・長泉寺


2017.12.30

小田急線海老名駅で下車、東口4番のりばからバスに乗り換え城山公園へ。
現在は公園として整備されている一帯は、鎌倉幕府の御家人 渋谷氏の早川城があったと伝えられている。



早川城跡北側にあたる公園入口は、台地から継ながる地形のため、堀切を設け、内側に土塁を築き外敵の侵入に備えた様子が残る。



一部の堀切が埋められ、渡りの先にひらけた広場がかつての城郭。南西部の物見塚跡に東郷氏祖先発祥地碑が建てられている。これは、薩摩藩士 東郷平八郎が渋谷氏の末裔であることに因んだもの。



神奈川の名勝史蹟四十五選に選ばれた記念に、早川城址 東郷元帥祖先発祥之地という碑もある。



発掘調査で、早川城跡西側の緩やかな斜面から防御施設として築かれた曲輪(腰郭)が発見された。
東側は急な斜面だったことがわかる。



渋谷荘(現在の綾瀬市、大和市、藤沢市)を治めていた渋谷重国が没すると、次男 高重が家督を継ぎ早川次郎と名乗ったとされる。
長男の光重は、宝治合戦の恩賞として薩摩国北薩地方の所領を得ると、重直を渋谷荘に残し早川城主とし、実重以下に地頭職を与え薩摩国に下向させた。それぞれ所領の地名を名乗り、祁答院、入来院、東郷、高城、鶴田と各氏始祖となった。

ちなみに、島津貴久の継室は入来院重聡の娘(雪窓夫人)で義久、義弘、歳久を産んだ。彼ら武将の母方を辿れば、入来院氏つまり渋谷氏が祖先ということになる。



城山公園から20分ほど歩いて五社神社へ。
渋谷一族が精神的な拠り所にしていたと、入来文書に記されているとか。



社殿横に渋谷神社の祠があった。




次は長泉寺へ向かう。相鉄バス国分寺台第7から海老名駅方面に戻って国分寺第2で下車。





かつて、中世の在地領主渋谷氏の祖師山菩提寺があった所。
この長泉寺は1634年に創建ということで、あまり関係ないように思えるが、この付近には渋谷重国の孫で入来院氏の祖、曽氏五郎定心の館があったとか、長泉寺の裏山に金王丸が葬られたとの伝承がある。

12/27/2017

崇福寺・岐阜城


2017.8.15

ホテルをチェックアウトして、電車で大垣駅から岐阜駅へ移動。目の前に現れたのは黄金の織田信長像。
今日は終日小雨で天候が悪い。



ここからバスに乗換えて長良川国際会議場北口で下車。最初の目的地は、信長の菩提寺である崇福寺。


 
本堂の拝観には200円かかり、音声ガイドにあわせて展示物を観る形式を取っている。
中でも興味深かったのが血天井というもの。
現場となったのは、関ヶ原の戦いの前哨戦で落城した岐阜城。時の城主は信長の孫にあたる織田秀信。秀信は石田三成が挙兵すると、家臣の反対を押しきってまで西軍に加担を決めるが、東軍の標的となり岐阜城は攻め落とされた。
家臣の説得により秀信は降伏し落ちのびたが、38名の将兵が討死または自刃した。彼らの菩提を弔うため、その時に血で染まった床板を崇福寺の天井に張ったものらしい。

 
拝観を終え、朱印帳を書いてもらっている間に、本堂裏にある信長と信忠の廟所、斉藤利匡一族の墓を見学。

織田信長父子廟。



右手には父子の位牌が安置されている位牌堂。



朱印帳を受け取り崇福寺を後にした。



バスで戻り、鵜飼で有名な長良橋で下車。長良川の川港として栄えた川原町には、蔵を利用したカフェや工芸品店が建ち並んでいた。
ここで昼食を済ませ、山麓駅まで歩き金華山ロープウェイで岐阜城へ登る。
天候が悪いので天守も薄っすらしか見えない。



ロープウェイを降りると、天下第一の門はすぐ近く。ここから10分くらいかけて天守を目指す。



金華山の特徴であるチャートの岩盤が至る所で確認できた。



ニノ門から見える天守。



天守からの風景。



麓に戻る。
岐阜公園の一部になっている信長居館跡は、現在も発掘調査中。



当時の入口はこの冠木門ではなく、板垣退助(岐阜公園内で襲われた)像の辺りだったようだ。
宣教師ルイス・フロイスの「長い石段を登り、宮殿の広間に入る」という記録から裏付けできる。
空中回廊のほか、庭園の遺構などが見つかっていて、客人のもてなしや外交の場として使われたと考えられている。



信長居館跡近くの岐阜市歴史博物館でGifu 信長展が催されていたので立ち寄る。

そしてGifu Media Cosmosの信長公ギャラリーで、CG再現された信長居館の映像を見て東京に戻った。



関ヶ原の戦いの前哨戦で、秀信に仕えた小林新六郎正祐は岐阜城陥落後、河瀬茂賀山城に帰城した。
関ヶ原本戦が終焉し、領内を警戒していた小林新六郎の家臣が、関ヶ原から撤退してきた島津義弘の一行に遭遇し、帰路を案内したという伝承がある。
義弘らは五僧峠を抜けた保月村辺りから案内してもらい、高宮河原で宿を取らせてもらったことを記す感状を小林家に残した。
しかしこの感状では、元服時の忠平の名で書かれているのは疑問があるし、花押は明らかに義弘のものではないらしい。素性を隠すためなのか?
専門家の間では、義弘とはぐれた新納旅庵らが道案内してもらい、感状を書いたが署名を偽造したという見解が取られている。
そもそも義弘の退き口ルートには、はぐれた者の記録も残っていて、混同しはっきりわかっていない。

12/26/2017

大垣城・安楽寺


2017.8.13

関ヶ原を後にし大垣のホテルにチェックイン。近くの大垣城に向かうも、時間が遅く城内に入場できずに外観だけ楽しむ。

大垣城は、関ヶ原の戦い本戦前に西軍が本陣とし島津勢も詰めていた。石田三成の頭には籠城戦という選択肢はなかったと思うけど、タイミングによってはここで籠城戦もあり得たかもしれない。

 


伏見城を陥落させた西軍は伊勢、美濃、北国の三方面から東国へ進軍する。島津勢は垂井宿に陣を布き、島津義弘ら主従は大垣城に入った。
東軍が竹ヶ鼻城辺りまで迫っていることを知った三成は、義弘に墨俣の渡しの守りを命じる。ところが、合渡に布陣していた三成家臣の杉江勘兵衛が討ち取られると、三成は大垣城への撤退を決めた。
義弘は、最前線の島津勢が墨俣に置き去りになってしまうため、援軍を送り、島津勢が撤退するまで留まることを主張するが受け入れられず、部隊をあずけていた島津豊久の元へ退却の使者を遣わした。無事に大垣へ戻ることができたが、義弘らの三成に対する不信感は高まる。
そもそも墨俣に布陣していた島津勢に気づいていた東軍は、敢えて戦闘を避けたとも言われるが。

また退却時に押川郷兵衛公近は、わざわざ軍勢から離脱し、敵の首を取り大垣の太刀始めを挙げているのも、血の気の多い島津勢らしい行動だろう。


2017.8.14

治水神社の帰り、岡山(勝山)の山腹にある安楽寺に立ち寄った。





関ヶ原の戦い前日、徳川家康軍が美濃赤坂に着陣した際、この岡山に本陣を置いた。
着陣したばかりの家康本隊は、島左近・明石全登らの奇襲攻めに遭う。
この局地戦、杭瀬川の戦いを征した西軍は、その夜に軍議を開き、義弘が豊久を使いとして岡山への夜襲を進言したが、三成はそれを退け、大垣から関ヶ原へと展開し陣を布くことになる。

山頂付近にある関ヶ原合戦岡山本陣址の碑。




ちょっと時系を戻す。
家康本隊は岐阜城から美濃赤坂に向かう途中、島津勢から奇襲攻撃を受けている。

兵糧略奪を目的としていた川上久林らは、通りがかった東軍の荷駄を狙い奇襲をかけた。しかし抵抗が激しく、久林は略奪を諦め退却したのだが、この相手がたまたま家康率いる本隊だった。
井伊直政を従えた家康本隊は、島津家の釣り野伏にかかり、家康は自刃まで覚悟したともいう。

ちなみに、この久林の父は沖田畷の戦いに於いて、龍造寺隆信の首級を挙げた川上忠堅。

9/24/2017

治水神社


2017.8.14

いろいろ寄り道をして、目的地の治水神社へ。
長良川と揖斐川の背割堤北端に鎮座、祭神は薩摩藩士の平田靱負。



薩摩平田氏の家紋、丸に上り二つ引両が左側に掲げてある神門。当然ながら至る所まで丸に十字。




本殿、祭文殿、拝殿が渡殿で連結された造りで、玉垣で囲われている。



神門右側には、治水工事の一連を記録した絵が描かれた看板がある。
その一つ、薩摩藩主 島津重年が参勤交代の折、すでに一期工事を終えた治水工事を視察した様子を描いたもの。
また、嫡子 善次郎が同行していて徳川家重に謁見の際、重豪を拝名した。



神門左の御神札、御守授与所で朱印帳を書いて頂いた。



工事の様子を模した薩摩義士之像。台石は桜島の溶岩。



宝暦治水観音堂。観世音菩薩像の慈翼に犠歿者86名の位牌が安置されている。




木曽三川公園センターに昇れば、最大の難工事といわれた長良川と揖斐川を分流する、油島千間堤(千本松原)の全貌が確認できたっぽい。



車で行く人は駐車場入口の下調べは必須。戸惑っていると、この油島千間堤を片側一車線を1km以上くだるハメになる。