2017年9月24日日曜日

治水神社


2017.8.14

いろいろ寄り道をして、目的地の治水神社へ。
長良川と揖斐川の背割堤北端に鎮座、祭神は薩摩藩士の平田靱負。



薩摩平田氏の家紋、丸に上り二つ引両が左側に掲げてある神門。当然ながら至る所まで丸に十字。




本殿、祭文殿、拝殿が渡殿で連結された造りで、玉垣で囲われている。



神門右側には、治水工事の一連を記録した絵が描かれた看板がある。
その一つ、薩摩藩主 島津重年が参勤交代の折、すでに一期工事を終えた治水工事を視察した様子を描いたもの。
また、嫡子 善次郎が同行していて徳川家重に謁見の際、重豪を拝名した。



神門左の御神札、御守授与所で朱印帳を描いて頂いた。



工事の様子を模した薩摩義士之像。台石は桜島の溶岩。



宝暦治水観音堂。観世音菩薩像の慈翼に犠歿者86名の位牌が安置されている。




木曽三川公園センターに昇れば、最大の難工事といわれた長良川と揖斐川を分流する、油島千間堤(千本松原)の全貌が確認できたっぽい。



車で行く人は駐車場入口の下調べは必須。戸惑っていると、この油島千間堤を片側一車線を1km以上くだるハメになる。

2017年9月21日木曜日

天照寺・根古地浄土三昧・大巻薩摩工事役館跡


2017.8.14

岐阜県南部の濃尾平野は木曽川、長良川、伊尾川(揖斐川)の木曽三川が乱流し、いくつもの輪中から成る地形は、洪水による被害が度々起こっていた。1753年、これに江戸幕府は薩摩藩に治水工事の幕命を出した。

御普請御手伝いといっても、人員の確保から資材を含むほとんどの工事費用を薩摩藩に負担させ、財力を削ぐべく幕府の策謀は明らかなものだった。しかし、時の薩摩藩主 島津重年は、お国のためとこれを引き受けた。
総奉行の平田靱負は京、大坂の商人から莫大な工事費の借入に奔走、国許の民は増税を課せられ貧しい生活を強いられる。これでも足りず献金を募ったところ、いち早く応えたのが、朝鮮の役で島津義弘が連れ帰った朝鮮の陶工士たちだったという。

1754年、工区を1之手から4之手まで分け一期工事が始まる。作業環境はというと、各工区に立てられた幕府の役人による嫌がらせ、地元の庄屋に薩摩義士の食事を一汁一菜、日用品の高値販売などを指示するなど、かなり陰険な幕府の対応が伺える。
当然、反発や不服に思う藩士が多く、抗議の意味での割腹、栄養不足による病死など工事への影響も大きかった。

1年3ヶ月に及ぶ工事を終えると、薩摩藩の借金は膨れ上がり、多くの犠牲者も出していた。従事した薩摩義士947名のうち、割腹や病死で命を落とした藩士は86名にも及んだという。そして平田靱負は工事をやり遂げると、責任をとって自刃した。


この日はレンタカーで大垣市から治水神社に向かったのだが、途中いくつもの宝暦治水工事に関わる寺院や墓所があったので立ち寄った。
国道258号線沿いで「薩摩義士ゆかりの地」という看板が目に付いた。1657年創建の天照寺。幾度か補修、修繕がされているのだろうけど、時代を感じる造りにしばし観入ってしまう。



共同墓地の一画にある八木七郎左衛門、山口清作、松下新七の薩摩義士三氏墓。



本堂左側には薩摩義士資料館ってスペースがあって気になるのだが、ふらっと入れる空気ではない。住職に声を掛けて観させてもらった。中央の甕は、近くの根古地浄土三昧から発掘され、遺骸が納められていた甕を復元したもの。



境内に設置の宝暦治水史跡案内図に、根古地薩摩工事義没者の墓、天照寺薩摩工事義没者の墓、大巻薩摩工事役館跡の位置が記されていた。地元のこういう情報はかなり貴重。



迷わず、天照寺のすぐ近くにある根古地薩摩工事義没者の墓へ。もとは浄土三昧という火葬場で、工事中に病死した24名の遺体を各甕に入れて埋めた場所。

1960年に7つの甕が発掘され、慰霊堂(六角堂)を建てて遺骨を納めた。7体の遺骨は分骨して、鹿児島市の大中寺に祀られている。ちなみに24名の位牌は天照寺に納められ、薩摩義士資料館で見ることができる。




そして、多少迷いながら大巻薩摩工事役館跡へ。
薩摩藩は、ここ(安八郡大牧村)の豪農 鬼頭兵内の屋敷を本小屋とし、宝暦治水工事を行なった。また平田靱負の終焉地でもある。

駐車場の石碑には、苦難を凌いだ薩摩義士を想い、島津修久の書が刻まれる。



平田靱負像。



宝暦薩摩治水工事顕彰供養堂。

 

2017年9月10日日曜日

関ヶ原


2017.8.13〜2017.8.14

東京駅から新幹線で名古屋駅着。さらにJR東海道線を乗継ぎ関ヶ原へ。
早速、関ヶ原駅前観光交流館に併設されているショップで買い物。



徳川家康の四男松平忠吉と、その後見役として井伊直政が約6000の兵を率いて布陣したのがJR関ヶ原駅付近。合戦終盤には、戦地から退却する島津隊を追撃し、大きな損害を与えることになる。

ここから東首塚、関ヶ原町歴史民俗資料館に立ち寄り、島津義弘陣跡に向かうルートを取ることにした。

途中の石田三成、島左近の陣跡には逆茂木が再現されている。大型バスの駐車場も完備、人で賑わっていた。



折角だから笹尾山の三成陣跡まで登ってみた。見晴らしはいい。



両軍15万のうち島津隊1500余りと寡勢が故、関ヶ原合戦の陣営で省略されたりもするんだけど、石田隊と島津隊は北国街道を挟んだ位置。近そうでも実際は徒歩10分ぐらい約1キロあった。



合戦後、現在の地に遷座された小池神明神社。説明板によれば、義弘がこの境内を陣地とし、戦勝祈願したといわれているとか。




小池神明神社のすぐ裏手に島津義弘陣跡の碑が建っている。とはいっても、義弘陣営は250m北西にある薩摩池。実際は島津豊久陣営辺りだったと思う。




今回は石田三成陣跡から向かったけど、小西行長陣跡からのルートをとると、島津義弘陣跡へは舗装された道とこの山道がある。



小池神明神社から徒歩5~10分くらいのこの池は、島津隊が軍用として使用したことから薩摩池と呼ばれている。当時の規模がわからないが、ほんと小さな池。古来より涸れることがないって書いてあったけど透明度といい、なんか不思議な池だった。



ここから後に島津の退き口として語り継がれる前進退却が敢行される。

義弘は「敵は何方が猛勢か」と問い、「東よりの敵、もってのほか猛勢」の返答に、「その猛勢の中に相掛けよ」と号令を掛けた。
島津隊の備えは先鋒が島津豊久、先鋒右備えが山田有栄、その後ろに島津義弘本陣。



戦が終焉に向かうと、桃配山から前進してきていた徳川家康本陣。現在の関ヶ原町歴史民俗資料館辺り。
義弘は川上忠兄を使者として遣わし、わざわざ島津の陣払いを伝えたとか。しかし、家康は退陣する軍勢を島津隊だと最初は認識していなかったっぽいから、この言い伝えは否定されそう。



一次史料と相違する点や異論も多々あるだろうが、現地に伝わる退き口のルートを辿ってみる。



島津隊が退却を始めると本多忠勝、井伊直政、さらに松平忠吉の軍勢が追撃。穿ち抜け、捨てがまりの島津家独特の戦法で敵中を突破、伊勢街道へ向かう。

烏頭坂辺りで豊久は馬を返し、追撃軍を食い止め、義弘を先へと逃がした。そのしんがり戦は壮絶なもので、豊久は槍で何度も突き上げられ重傷を負ったという。島津豊久奮戦の地には、勇戦を讃える石碑が建てられている。



また蒲生衆70人を率いた阿多長寿院盛淳は、義弘の陣羽織を拝領し、義弘と名乗り牧田上野で討死した。
琳光寺の本堂左手に盛淳の墓、それに連なるように蒲生士の五輪石が祀られている。





近くの小学校跡地、現在の大垣市役所牧田支所横にその忠烈を讃える碑が建つ。



一方の豊久は、従士に支えられながら勝地峠を越えた。この辺りで東軍が勝鬨を挙げ、追撃を止めたことから勝地峠と由来するとか。



豊久は、なんとか多良郷樫原まで辿り着いたところで三輪内助入道一斎という人物に道案内を頼み、白拍子谷に匿われた。しかし豊久の傷はますます重く、退却の足手まといになるのを恥じ、その夜自刃して果ててしまった。



上多良公民館の道を入った所にある瑠璃光禅寺(正覚山薬師寺)は、豊久の位牌が納められている菩提寺。



近くには、薩摩塚という豊久の墓とされる五輪塔がある。後世の宝暦治水工事の際、薩摩義士がここを訪れ、小さな五輪塔を建てて墓としたと伝わる。




豊久、盛淳らの犠牲により追撃を免れた義弘だったが、落ち武者狩りや食糧難に苦しみ、開戦から18日後、無事薩摩に帰れたのは80人余りだったという。

2017年8月18日金曜日

密蔵院


2017.8.11

東京メトロ南北線直通の埼玉高速鉄道で戸塚安行へ。出口3から国際興業バスのバスターミナルに出て、西川04系統を乗り継ぎ安行支所下車。さらに徒歩5分ぐらいで密蔵院参道入口に着く。



現在の千代田区内幸町一丁目、帝国ホテル付近にあった薩摩藩島津家中屋敷の中門。その中門が1884年に密蔵院の山門として移築された。



境内からの山門。薩摩藩島津家を思わすものは皆無...。



本堂へと続く四国八十八ヶ所お砂踏み参道。



本堂。



本堂に向かって左側の鐘楼から裏側に回り込むと、十六羅漢像、その中央上段に平将門供養塔があった。




寺務所で朱印帳を描いてもらう。左から大黒天尊、不動明王、延命地蔵の3種類。