2/12/2017

鶴岡八幡宮・白旗神社・島津忠久の墓


2017.1.2

島津忠久に関する書物を読んでいると、鶴岡八幡宮がちょいちょい出てくる。
鎌倉幕府第3代将軍 源実朝が雪中暗殺された場所としても知られ、歴史もかなり古く、比企谷妙本寺と島津忠久の墓巡りがてら寄ることにした。



初詣の群衆を横目に、一目散に祈祷受付へ。朱印帳を書いてもらい道なりに歩くと、一際目を引く境内社の白旗神社に導かれる。唐破風が突出した造り。なんの前知識もなく、適当に何枚か写真を撮った。



後日調べたところ、北条政子によって創建され、頼朝と実朝を祀る黒塗りの社殿は、武衛殿と呼ばれるものらしい。扁額が掲げられ、これが島津久光の筆と伝えられているんだとか。



斉彬を異母兄とする久光は、当主の地位にこそ就いていないが実質上、当時の薩摩藩で実権を握っていた人物。


初詣のついでなのか、源頼朝の墓へ向かう人もチラホラ。麓までくるとまた白旗神社が…。ウィキペディアによると、日本全国に70社はあるらしい。




その白旗神社を左に、源頼朝公顕彰碑を右にして階段を上がると、正面に源頼朝の墓「頼朝公御石塔」。香炉には島津家の家紋が。



すぐ右手に島津忠久の供養塔が建っていた。



「元祖島津豊後守忠久石塔道」と書いてあるので供養塔というより石標。
しかし斜めってるのがすごく気になる。

この辺りは1779年、第25代藩主島津重豪が忠久の墓を建立した際、頼朝の墓塔も整備したといわれている。

石標に従い、右奥手の岩肌の道を上がり忠久ら三公の墓へ。



左から毛利季光、大江広元、島津忠久の順に墓が並ぶ。
こんな所になぜ島津家と毛利家の墓が?という疑問は、この山林一帯を島津家と毛利家が所領していたからということらしい。
 


ここから右を見下ろすと、三公の墓に繋がる2本の石段があった。現在の正規ルートではないっぽい。
一回麓の白旗神社まで下りて、石段の方に迂回し参拝し直すことにした。


忠久の墓への石段。
薩摩藩は天保年間に、旧参道(源頼朝の墓側)ではなく山裾から忠久の墓へ行けるように墓地参道が整備された。山裾になにやら石碑があり、碑文から忠久から忠義までの名前が確認できるが、よく読み取れない。
その横には鎌倉御墳墓調査に尽力した、長州藩士 村田清風の句碑が建立されている。



今ではメインになっているこっち石段は、後に長州藩が石灯籠と共に築いたもの。



各石段を上がると開けた広場に出る。鎌倉幕府第2代執権北条義時の法華堂跡地。



標記がないやぐら状の墓は、鎌倉幕府の内乱 宝治合戦で滅亡した三浦泰村一族の墓。



法華堂跡奥にさっきの2本の石段があり、右の鳥居の無い方が忠久の墓へ、左を行くと毛利季光、大江広元の墓へ通じる。
石段を上がると途中に平場があり、結局はどちらでも辿り着けるんだけど。

石段が2本あるのは不可解。鎌倉市役所のホームページによると、島津久光が忠久の墓に詣でたとき、「手前の大江広元の墓の前で供の者が待機するのは神慮に不敬。」ということで、墓に通じる石段を新設したという。




一番右が島津忠久の墓。



どの墓も岩をくり抜いたやぐら状だが、忠久とその他ではちょっと違う気がする。年代が違うのだろうか。

2/07/2017

町田家墓石塔群 (1)・熊野神社・川田神社


2016.12.31

最終日は実家から車で10分程と近い熊野神社へ。途中、「町田久成誕生の地」という看板を見つけた。横に廃仏毀釈によって破壊された仁王像が痛々しい。



町田家は島津家初代当主忠久のひ孫にあたる忠継を祖とし、島津家に仕えた三名家の一つ。
その菩提寺として、18代町田久倍が建立した永福寺。その奥の方に町田家の墓石塔群がある。



そして熊野神社へ。町田家の鎮守社として町田氏2代 忠光によって創建。





社殿の左にあるのが歳久神社らしい。歳久を祀ってる神社は、大石神社等各地に点在しているのだろうけど、この規模は何とも言葉にできなかった。



ここで疑問になるのが、歳久と町田家の関係。豊臣政権に降伏後も、歳久は抵抗し続けていた。
その上、秀吉暗殺未遂疑惑もあり、関係ない?梅北一揆の責任を取らされる形で、歳久の首を取るよう秀吉は龍伯に命じた。
その追手としたのが町田久倍だった。彼は追い詰めたはいいが、さすがに歳久を斬ることを躊躇い、家臣の原田甚次が申し出たという。
これが起源かはわからないが、代々島津家に仕えた町田家のせめてもの償いなのだろうか。


次は伊集院忠朗を師としたといわれる軍師で、義久に仕えた川田義朗が祀られている川田神社へ。



義朗は、耳川の戦いでの逆境を跳ね除ける采配や、沖田畷の戦いで龍造寺隆信の死を予言したとか、島津軍のメンタル的支えになっていたのだろう。

川田氏累代の墓石塔群の中に第12代川田駿河守義朗の墓石もある。



すぐ横に村社南方神社があったけど、詳細はよくわからない。



実家近くの名所巡りを堪能し過ぎたせいで飛行機までの時間がない。空港まで高速をとばし、初日に断念した岩剣城跡へ。

でも時間的に登頂は厳しい。途中まででもと思い、かなり足場の悪い道をクモの巣を掻き分け2〜3分駆け登ってみたけど、景色が変わる様子もない。





数々の自分の落ち度を反省し引き返した。またの機会にする。
当時どれだけ整備されていたかわからないが、天然の要塞を体感し、東京への帰路に就いた。

2/06/2017

鶴嶺神社・仙巌園・照国神社


2016.12.30

甲突川沿いにある維新ふるさと館へ。ここは幕末のものを主に展示してあった。
周辺には、日新斎の「いろは歌石柱」、西郷隆盛や大久保利通らの誕生地石がゴロゴロ点在する。




幕末が好きな人には堪らないのだろうけど、自分にはまだその域に達していないのを再認識しつつ仙巌園(磯庭園)へ向かう。


仙巌園横に目を引く鶴嶺神社があった。島津歴代当主とその家族までもが祀られている。



神楽殿の後ろに構える本殿は、山々をバックとしさらに威厳が増して気高い。




現在の源頼朝御石塔は、鎌倉市民から寄贈されたものらしい。島津氏初代 忠久の出自について、頼朝落胤説が島津家には伝わっている。



1658年、島津家久(忠恒)の子、光久が島津家の別邸として築いた仙巌園。
錦江湾の奥に桜島が望む。



1871年、廃藩置県で島津家の人々は鶴丸城から移り住み、御殿の改築が行われた。

改築前の御殿。



敷地の一画に、猫神という猫を祀る祠がある。



文禄・慶長の役の際、島津義弘が朝鮮に7匹の猫を連れていき、猫の瞳孔の開き具合で時刻を推測、複数の箇所を同時刻に奇襲をかけたという。ここには生還した2匹の猫が祀られている。


1895年、裏山で採れた樟を建材とした正門が建てられる。



隣接する尚古集成館へ。島津家に関する歴史資料が展示されているが、島津斉彬時代のものが多かった。
物販は、地元だけにネットでは引っかからない書物ばかりで品揃えはいい。島津忠久関連の本もあったので購入した。



市街地方面に戻って、島津忠恒が築いた鶴丸城へ。その本丸跡地に黎明館が建つ。朱印状から肖像画まで貯蔵・展示されていて、十分に堪能できた。
今もあるかわからないけど、隣接する図書館(自習室)で受験勉強してたなぁ、と思い出に浸ったり。

鶴丸城御楼門は現在復元工事中で、2020年に完成予定。焼失前の写真には御角櫓とそれを繋ぐ城壁も確認できる。



観光客が西郷隆盛像の写真を収める一方、ちょうど裏側にひっそり一風変わった石像がある。
これが、じめさあ(持明院様)と呼ばれる亀寿の石像。



彼女は器量に恵まれたとか、恵まれなかったとか両説あるけど、毎年命日に石像の化粧直しが行われるのだとか。
義久の3女として生を受け、嫁いだ島津久保が文禄の役で病没、その後、政略的に弟の忠恒のもとへ嫁がされる。九州征伐敗戦後には、秀吉に人質として出されたり、数奇な運命を辿った。


島津氏28代(薩摩藩主11代) 島津斉彬公を祀る照国神社。
市街地に近く、七五三等で子供の頃から馴染みがあり、当時参拝した記憶が今も残っている。




御朱印をいただく。



右手奥にある島津斉彬公像。
豊臣秀吉に降伏から江戸城無血開城までの約280年後、斉彬が人材育成した西郷隆盛、大久保利通らによって倒幕を果たすことになる。