12/26/2017

大垣城・安楽寺


2017.8.13

関ヶ原を後にし大垣のホテルにチェックイン。近くの大垣城に向かうも、時間が遅く城内に入場できずに外観だけ楽しむ。

関ヶ原の戦い本戦前、西軍が本陣とし島津勢も詰めていた大垣城。しかし合戦前夜、小早川秀秋の寝返りが明らかになり、山中に布陣していた大谷吉継を救援するため、石田三成と共に島津義弘らも大垣城から関ヶ原へ移動した。
近年の研究では、開戦後に徳川家康が小早川秀秋に寝返りを催促した問鉄砲の定説はほぼ否定されている。

 


伏見城を陥落させた西軍は伊勢、美濃、北国の三方面から東国へ進軍する。島津勢は垂井宿に陣を布き、島津義弘ら主従は大垣城に入った。
東軍が竹ヶ鼻城辺りまで迫っていることを知った三成は、義弘に墨俣の渡しの守りを命じる。ところが、合渡に布陣していた三成家臣の杉江勘兵衛が討ち取られると、三成は大垣城への撤退を決めた。
義弘は、最前線の島津勢が墨俣に置き去りになってしまうため援軍を送り、島津勢が撤退するまで留まることを主張するが受け入れられず、部隊をあずけていた島津豊久の元へ退却の使者を遣わした。無事に大垣へ戻ることができたが、義弘らの三成に対する不信感は高まる。
そもそも墨俣に布陣していた島津勢に気づいていた東軍だったが、敢えて戦闘を避けたとも言われる。

また退却時に押川郷兵衛公近はわざわざ軍勢から離脱し、敵の首を取り大垣の太刀始めを挙げているのも、血の気の多い島津勢らしい行動だろう。


2017.8.14

治水神社の帰り、岡山(勝山)の山腹にある安楽寺に立ち寄った。





関ヶ原の戦い前日、徳川家康軍が美濃赤坂に着陣した際、この岡山に本陣を置いた。
着陣したばかりの家康本隊は、島左近・明石全登らの奇襲攻めに遭う。
この局地戦、杭瀬川の戦いを征した西軍は、その夜に軍議を開き、義弘が豊久を使いとして岡山への夜襲を進言したが、三成はそれを退け、大垣から関ヶ原へと展開し陣を布くことになる。

山頂付近にある関ヶ原合戦岡山本陣址の碑。




ちょっと時系を戻す。
家康本隊は岐阜城から美濃赤坂に向かう途中、島津勢から奇襲攻撃を受けている。

兵糧略奪を目的としていた川上久林らは、通りがかった東軍の荷駄を狙い奇襲をかけた。しかし抵抗が激しく、久林は略奪を諦め退却したのだが、この相手がたまたま家康率いる本隊だった。
井伊直政を従えた家康本隊は、島津家の釣り野伏にかかり、家康は自刃まで覚悟したともいう。

ちなみに、この久林の父は沖田畷の戦いに於いて、龍造寺隆信の首級を挙げた川上忠堅。

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