12/15/2018

江戸城


2018.12.3

各大名に普請が命じられ築城された江戸城。皇居周辺の石垣には現在も各藩の刻印石が残っている。
刻印は石垣を築いた場所に刻んだり、持ち込んだ石が他の藩と区別できるようにだったり、採石場を示すなど様々な理由が考えられる。そういう視点で石垣をみるのもおもしろいかもしれない。


東京駅から行幸通り方面に上がり和田倉橋へ。



和田倉噴水公園を抜け右に曲がると、Palace Hotel Tokyo前の濠を挟んだ石垣に、複数の丸に十字(薩摩藩島津家または佐土原藩島津家の家紋)の刻印石が確認できる。



石垣上に生える2本の木の間の笠石。同じ石にもう1つ刻印があるので疑わしいか。



写真中央とその右斜め上、そして斜め下にも丸に十字。



その写真中央の丸から線がはみ出している家紋に違和感を覚える。調べてみると、丸に出十字といって丹後竹田 中川内膳正久盛、また伊予大洲 加藤出羽守恭興が使っていた刻印らしい。
複雑な家紋だと石に刻むのは難しく、簡素化や新たに家紋として用いるのことは当然だろう。
さらに前田家家臣は、丸に十字を組み合わせた複合タイプで、丸に十字を一概に島津家と決めつけることはできない。ある程度見極める知識も必要になってくる。


和田倉門や桔梗門にも薩摩藩島津家の刻印石があるらしいが、この日は皇居乾通り一般公開で人でごった返していたので断念。比較的人の少ない北の丸公園の田安門、清水門の刻印石を探ることにした。

奥に見えるのが桔梗門。



内堀通りに沿って北の丸公園を目指す。武道館を抜け田安門へ。気付けばもう九段下、東西線で2駅分歩いたことになる。



北の丸公園入口の田安門を入った枡形の左手に薩摩藩島津家と思われる丸に十字。



これにもなんか違和感。明らかに他のよりも大きく四角に近い。高さ的に立って彫りやすい位置にあり、後々誰かが刻んだのか?と勘ぐってしまう。


田安門から千代田区役所方向の清水門へ移動。
江戸幕府第14代将軍 徳川家茂の正室となった和宮は、輿入れの際この清水門から北の丸の清水邸に入ったという。



高麗門から渡櫓門を抜け、真正面の枡形の石垣に刻印石を発見。



ここから神田川沿いに竹橋駅方面に歩く。神田川に架かる雉子橋から錦橋にかけて外堀の石垣が残っている。



このどこかに丸十字があるらしいが、この辺りは上部を首都高が遮っていて、日中でも薄暗く探すことができなかった。
神田川クルーズに参加すると見れるっぽいけど、刻印石の位置が水面ギリギリなので水位にも影響されそう。

12/04/2018

清徳寺・奥平家墓域・広岳院・東禅寺


2018.8.11

品川駅から京急線を乗り継ぎ新馬場へ。北口を出て第一京浜を渡ったところに清徳寺はある。



そこからさらに右手の細い路地を行き、門を入りまっすぐ進む。桶・柄杓置場の手前にあるのが長徳軒忠貞のお墓。没年が一致するので間違いない。戒名 長徳軒龍堂泉公居士。



長徳軒忠貞は相州家 島津運久の子で、本来であれば相州家を継ぐ身。しかし島津運久が伊作家 島津忠良(後の日新斎)の母 常盤(新納是久女、梅窓)と再婚し、島津忠良が相州家の後継者となった。
一方、家督を継ぐことができなかった島津忠貞は長徳軒と名を変え出家、下野国の足利学校に留学すべく海を渡る。
しかし遠江国で遭難にあい駿河沖に漂着した。これを聞き付けた駿河・遠江守護 今川氏親(今川義元の父)が使者を出したのを機に、長徳軒忠貞は還俗し今川氏に仕えるようになったという。

さらに医術に精通していた長徳軒忠貞は、病気になった北条氏綱から小田原に呼ばれ、以降は北条氏に仕えた。



清徳寺から第一京浜に戻って山手通りを右折、東海禅寺を過ぎ目黒川を渡ると左手に清光院がある。清徳寺からだと徒歩15分くらい。



目的の奥平家墓域は清光院の奥。目黒川側に瓦積みの土塀に囲まれた一画がそれ。



ここには島津氏第25代当主 島津重豪の次男 奥平昌高の墓がある。
奥平昌高は豊前中津藩主 奥平昌男の養子に入り、わずか6歳で家督を継いだ。父親譲りの蘭癖だったらしく、オランダ名をフレデリック・ヘンドリックという。娘は島津忠寛の正室へ入っている。

配列図がないので、奥平昌高の戒名 龍徳院殿無方道應大居士を手掛かりに墓石を探す。
該当したのが、石門から見て1番右奥の空風火水地と刻印された五輪塔。



2代藩主 奥平家昌夫婦、姉 雲松院の五輪塔。3メートル超えが3基並ぶと圧巻。




京急新馬場駅に戻り品川駅で下車。さらに港区コミュニティバスに乗り高輪台小学校で下車する。歩いてすぐの東海大学前にある広岳院へ。



島津家に仕えた家老 伊勢貞昌が1641年に江戸で病死し、広岳院に葬られたという情報をもとにお墓を探す。

伊勢貞昌は島津久保に従い小田原征伐や文禄の役、島津久保が亡くなると島津忠恒に共し慶長の役、庄内の乱に出兵し武功をあげた。

ここも墓地は併設されておらず、正面に向かって左側の路地を行くとあるのだが、柵にはカギがかかり閉ざされている。



本殿に戻り話しを伺うと、関係者以外の参拝はできないらしい。しかも古くて墓石の字は読めないとおっしゃっていた。仕方ないので、次の目的地の東禅寺へ向かう。



ここから徒歩10分ぐらいの東禅寺は、日向飫肥藩主 伊東祐慶が開基し、寺号は法名から取られた。以降、飫肥藩主伊東家をはじめ、仙台藩伊達家、岡山藩主池田家など多くの大名の菩提寺となる。



墓所は山門に向かって左の路地を行けば辿り着けるが、ここも関係者以外は非公開。北郷忠亮の墓が都城島津家墓地のほか、ここにもある情報があったので確かめたかったが残念。



東禅寺前の高輪公園にある看板。江戸時代の敷地図が掲げられ、当時のこの辺りの様子がわかる。

 
 

この約300年前の公園附近沿革案内には井伊、本多家の屋敷が高輪公園を挟んであるのがわかる。その横には松平大隅守の下屋敷、抱屋敷。
これは高輪森の公園に掲示されている、1846年の御府内場末住還其外沿革図書と比べてみてもほとんど変わりがない。200年以上も屋敷を構えていたことになる。

11/25/2018

日枝神社・源範頼の墓・安達盛長の墓・甘縄神明宮


2018.7.9

日枝神社は修禅寺の鬼門にあたり、弘法大師の建立といわれている。



鳥居をくぐり石段をあがると、右手に源範頼に纏わる信功院があったことを示す庚申塔。



境内は杉の大木がそびえ立ち神聖な趣き。




源範頼の墓は、先の修禅寺から500mぐらい坂道を上がると辿り着ける。



印象はシンプルで、状態も当時物とは思えない。



説明板に信功院のことも書かれていたので以下に抜粋する。

1193年の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。


源範頼の妻は、丹後内侍と安達盛長の娘というのが定説。
二条院に仕えていた丹後内侍は、惟宗忠康(もしくは惟宗広言)との間に島津忠久を授かる。そして関東に戻り安達盛長に嫁ぎ、もうけた娘が源範頼の妻となった。
しかし丹後内侍と惟宗広言は元サヤに戻ったのか、共に薩摩へ下り余生を過ごしていて矛盾が生じる。
そもそも丹後局と丹後内侍は同一人物ではないとする説もあるし、全てを鵜呑みにすると混乱は必至。


その安達藤九郎盛長の墓は、修善寺梅林に向かう途中にある。

往年は源頼朝に仕え鎌倉幕府創設に尽力。上野奉行職三河守護を歴任、源頼家が将軍になると老臣の一人として幕政に加わった。



安達盛長の屋敷は甘縄にあって、現在の甘縄神明宮に安達盛長邸趾の碑が建っている。

吾妻鏡によると、1186年6月10日、病いの丹後内侍を見舞うため、源頼朝は朝光と胤頼の2人だけを引き連れ甘縄の家へ出かけたとある。夕刻だったのか、この日は甚だしい雨と雷鳴。密会とも取れるこの行動は、島津忠久が源頼朝の落胤説もゼロではないと感じてしまう。



2018.8.15

後日、鎌倉に行った時に甘縄神明宮を訪れてきた。
鎌倉駅から江ノ電に乗り換えて長谷で下車し、鎌倉大仏方面に歩き、長谷寺とは逆方向に行くと甘縄神明宮がある。



碑は鳥居をくぐってすぐ右手。



社殿に続く階段下の北条時宗公産湯の井戸。



社殿とそれに連なる本殿。


 

11/24/2018

修禅寺・指月殿・源頼家の墓・家臣十三士の墓・源義経像


2018.7.9

日枝神社近くの修禅寺は、平安時代初期の807年に弘法大師の開基と伝わる。






本堂右手の寺務所で御朱印をいただき、拝観料300円を納め宝物殿へ。



宝物殿には古面と呼ばれるもの、源頼家と源範頼が所用した馬具などが展示されていて興味深かった。
この古面は戯曲 修禅寺物語の題材となったことでも知られ、源頼家に纏わる伝承がある。

鎌倉幕府第2代将軍職を追われ、伊豆修善寺に幽閉されていた源頼家は、北条氏の謀略により漆の入った風呂に入れられ全身が腫れ上がってしまった。その被れた顔を写し取り、苦しみを母 北条政子に訴えるため、面作り師 夜叉王に木製の面を彫らせたといわれている。


修禅寺から桂川を渡り筥湯へ。
ここで源頼家が入浴中、鎌倉幕府 北条時政の刺客に暗殺された場所だといわれている。



北条政子が源頼家の供養のために建立した指月殿は、修禅寺から160m程の距離。



修禅寺山門の仁王堂におさめられている金剛力士像は、釈迦如来坐像の両脇に安置されていたが、さらに前は修禅寺総門におさめられていたものらしい。

釈迦如来坐像。



指月殿に向かって左側に源頼家の墓。



供養塔の裏に3基並ぶ真ん中の五輪石塔がそれだという。両脇は若狭局と一幡との伝承がある。



さらに左手に広場には家臣十三士の墓。



以下説明板より引用。

北条氏との確執で、病気を理由に修善寺に配流された頼家は、元久元年(1204年)7月18日、入浴中に暗殺された。
吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに暗殺されたことが記されている。
この墓はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。
この墓は元々ここより東へ200m程の麓にあったが、台風被害により平成17年(2005年)7月17日にこの地に移築された。


源頼家の墓から410m、この石段をひたすら上がって源義経像へ。



源義経は蒙古へ渡ってチンギス ハンになったという壮大すぎる説もある。

 

11/02/2018

真珠院・願成就院・北条政子産湯の井戸・成福寺・蛭ケ島公園


2018.7.8

伊豆へ配流となった源頼朝を監視する立場の伊東祐親が大番役で在京中だった間に、あろうことか娘の八重姫が源頼朝と結ばれ、すでに3歳の千鶴丸を授かっていた。
平家に知られることを恐れた伊東祐親は、千鶴丸の腰に石を巻きつけ川に沈めてしまい、源頼朝との仲を裂かれた八重姫は、真珠ヶ淵に身を投げ命を絶ったという。

その八重姫入水の地近くに真珠院が建立された。現在は古川という狩野川の支流が流れている程度で、当時の状況を思い浮かべるのは難しい。

山門。


山門を入って右手が八重姫を祀る御堂(静堂)。



伊東氏といえば、織豊期に島津氏と日向の覇権を争った伊東義祐が思い浮かぶ。その興りは、工藤祐経の子 伊東祐時が日向地頭職を与えられ下向したことによるもので、元をたどれば伊東祐親も工藤氏のいち支族。


真珠院からは旧下田街道を北上し、成福寺までの守山中世史跡群を巡ることにしている。
次の願成就院は、1189年に北条時政が源頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して創建された寺院。



その後も2代執権 北条義時、3代の北条泰時にわたり繁栄をきわめ、南新御堂や北条御堂、北塔など次々に堂塔が建立された。この様子は大御堂のジオラマで規模を知ることができ、興味深かったのだが写真はNGとのこと。

大御堂には運慶作の阿弥陀如来坐蔵、毘沙門天像、不動明王像が安置される。



奥の宝物館を見学し、預けていた朱印帳を回収。全3種類。



北条時政の墓は風化が進んでいて、それを囲む新たに設けられた囲垣には違和感を覚えた。




次は程近い北条政子産湯の井戸へ。



平成10年の発掘調査で、北条氏邸内に井戸があったことがわかっていて、この産湯の井戸と伝わる旧跡は江戸時代以降のものだという。よって信憑性は低い。
ここは守山の麓にあった北条氏邸の東に位置し、狩野川の方に向かえば最初に見つけた北条氏邸跡に辿り着く。


産湯の井戸の向かいには堀越御所跡があるが、現在は何もない原っぱ。
堀越御所は北条氏の時代より下り、室町幕府8代足利義政の義兄 足利政知が関東を治めるために開いた政庁兼館だったところ。


さらに100mほど北上し、北条氏菩提寺の成福寺へ。

鎌倉幕府8代 北条時宗の第3子 北条正宗が1289年に北条氏発祥の当地に開基したといわれている。そして北条正宗の長子 北条宗仁がこれを修造して成福寺とした。以降、代々住職を受け継ぎ、現在は21代目になるそうだ。

北条正宗の墓(右)、北条時宗の墓(左)。



本堂北側の北条氏歴代墓所。




ここまで来ると韮山駅の方が近いのだが、自転車を返さないといけないので伊豆長岡駅へ戻る。そして電車で隣りの韮山駅へ移動、蛭ケ島公園に向かう。

本音としては韮山城跡に行きたいところだが、日没が近いのと今回の趣旨としては、源頼朝配流の地の方が妥当だろう。

源頼朝は1160年にここに流されて、14歳から約20年間の流人生活をおくった。



蛭ケ島公園一帯は、かつて狩野川の氾濫によってできた中州の一つで、湿田に囲まれた島状の地形だったというが、整備されている現在の様子からは想像し難い。

蛭ケ島の夫婦。



韮山駅に戻り、宿泊する修善寺へ移動。
南口1番バス乗り場から修善寺温泉行きに乗車。旅館にチェックインして夕食まで時間があるので翌日の下見に出掛けた。


竹林の小径。



門が閉ざされた修禅寺。



逸る気持ちを抑え、詳しくは翌日まわることにする。