1/29/2018

生麦・本覚寺


2018.1.5

湘南新宿ラインで横浜駅乗り換え、京急線で生麦へ。

1862年、薩摩藩士が英国商人ら4人を殺傷した生麦事件が、ここ生麦村で起こった。生麦事件はもちろん、時代背景もちょっと勉強して行った。



開国を迫る米国との間に井伊直弼は、日米修好通商条約を朝廷の勅許を得ずに締結。さらに、徳川慶福(家茂)の将軍継嗣を断行した。

譜代大名が政治を行う譜代専制から、外様大名も政治に参加する挙国一致体制を目指した島津斉彬は、これを不服とし、藩兵3000人を率いて上洛を計画していたという。しかし斉彬の急死(毒殺とも)で実現しなかったが、異母弟 島津久光が斉彬の遺志を継いだ。

1862年3月16日、薩摩藩国父の久光は、1000人の薩摩藩士と共に、小銃100挺と野戦砲4門を携え、率兵上京を敢行。京から江戸へ入り、朝廷の権威と薩摩藩の武力で幕府に幕政改革を迫るためである。
しかし、時の薩摩藩主は実子の茂久で、久光は無位無官。京に入れる保障はなかったが、孝明天皇の側近 岩倉具視の尽力により、京都滞在の朝命を得て入京した。そして、同士薩摩の精忠組を武力により鎮圧(寺田屋事変)し、孝明天皇から幕政改革案への同意を得ることに成功した。久光は勅使 大原重徳を護衛し、700の兵を率いて江戸に入った。そして、幕府へ雄藩連合に賛同する一橋慶喜と、松平春嶽の登用を飲ませた。

任を果たした久光は京に戻る道中、川崎大師に向かっていた英国商人ら4人と遭遇。乗馬したままやり過ごそうとした彼らに、薩摩藩士が馬を降りろという仕草をした。
リチャードソンが馬首を返したところ、行列に突っ込みかけ、共頭 奈良原喜左衛門ら数人が斬り付けた。


現在、この生麦事件発生現場には、関口日記より抜粋の看板が民家の塀に設置されている。



さらに旧東海道を約700m下ったところで、海江田信義が止めを刺し、リチャードソンは落命した。ここに、生麦事件碑が建てられている。ちょうどKIRIN工場の前。



現在の旧東海道。




京急線で神奈川駅へ移動。

リチャードソンと同じく斬り付けられたマーシャルとクラークは、本覚寺に置かれていたアメリカ領事館に逃げ込み救いを求めた。そして医師ヘボンの治療を受けている。




参拝して朱印帳を書いてもらった。



ボロディールは横浜居留地へ逃れ、住人たちに事件の詳細を伝えた。
通説だと、ヨーロッパ人からの襲撃を恐れて久光一行は、神奈川宿から保土ヶ谷宿に宿泊先を変えたとされる。しかし江戸からの距離を考えれば、1日で保土ヶ谷宿まで進むのは可能であり、そもそも400人もの宿泊先を直前に変えれるか?という見解から疑問が残る。

英国側は、賠償金と殺傷した者の処罰を要求。これに薩摩藩は、犯人を足軽の岡野新助(存在しない)とし、事件後は行方不明との報告をした。賠償金も拒否。交渉決裂により英国は、軍艦7隻を錦江湾に入港させ、薩英戦争が勃発する。


生麦に戻り、淺海さんが個人運営している生麦事件参考館へ。予約してなかったけど、1時間ほどDVDを観せていただき、個人収集の貴重な資料を見学させてもらった。



KIRIN工場見学を予約していたので時間もなく、淺海さんにお礼を言ってKIRIN工場へ。

 

1/03/2018

早川城跡・五社神社・長泉寺


2017.12.30

小田急線海老名駅で下車、東口4番のりばからバスに乗り換え城山公園へ。
現在は公園として整備されている一帯は、鎌倉幕府の御家人 渋谷氏の早川城があったと伝えられている。



早川城跡北側にあたる公園入口は、台地から継ながる地形のため、堀切を設け、内側に土塁を築き外敵の侵入に備えた様子が残る。



一部の堀切が埋められ、渡りの先にひらけた広場がかつての城郭。南西部の物見塚跡に東郷氏祖先発祥地碑が建てられている。これは、薩摩藩士 東郷平八郎が渋谷氏の末裔であることに因んだもの。



神奈川の名勝史蹟四十五選に選ばれた記念に、早川城址 東郷元帥祖先発祥之地という碑もある。



発掘調査で、早川城跡西側の緩やかな斜面から防御施設として築かれた曲輪(腰郭)が発見された。
東側は急な斜面だったことがわかる。



渋谷荘(現在の綾瀬市、大和市、藤沢市)を治めていた渋谷重国が没すると、次男 高重が家督を継ぎ早川次郎と名乗ったとされる。
長男の光重は、宝治合戦の恩賞として薩摩国北薩地方の所領を得ると、重直を渋谷荘に残し早川城主とし、実重以下に地頭職を与え薩摩国に下向させた。それぞれ所領の地名を名乗り、祁答院、入来院、東郷、高城、鶴田と各氏始祖となった。

ちなみに、島津貴久の継室は入来院重聡の娘(雪窓夫人)で義久、義弘、歳久を産んだ。彼ら武将の母方を辿れば、入来院氏つまり渋谷氏が祖先ということになる。



城山公園から20分ほど歩いて五社神社へ。
渋谷一族が精神的な拠り所にしていたと、入来文書に記されているとか。



社殿横に渋谷神社の祠があった。




次は長泉寺へ向かう。相鉄バス国分寺台第7から海老名駅方面に戻って国分寺第2で下車。





かつて、中世の在地領主渋谷氏の祖師山菩提寺があった所。
この長泉寺は1634年に創建ということで、あまり関係ないように思えるが、この付近には渋谷重国の孫で入来院氏の祖、曽氏五郎定心の館があったとか、長泉寺の裏山に金王丸が葬られたとの伝承がある。